2011/9/18 敬老礼拝メッセージ

9月 19th, 2011 § コメントする

主と共に歩んで
詩篇90篇

一、
今日は敬老祝福礼拝です。もし私たちの歩みが神様なしのものなら、それはしばしば労苦と悲しみです。しかし主と共に歩むときに、全ては主の御手の中にあり、全ては希望に変えられていくのです。

二、
モーセは詩篇の90篇で私たちの人生ということを振り返り、祈ります。

  1. モーセはまず、神様の一方的な主権について語ります(1-2節)。そして神様の主権の前には、私たちは小さな存在でしかありません(3-4節)。神様は私たちを「高価で尊い」者と見てくださいますが、しかし神様のああわれみなしには、生きることさえできないのです(5-6節)。
  2. モーセはさらに、主の厳粛な義を語ります(7-8節)。荒野での40年の間、彼はイスラエルに対する神様の峻厳な裁きを見てきたに違いありません。その時に、ただ神様の恵みとあわれみによって私たちは生かされていることが明らかになります(9-12節)。しかし私たちは今、仲介者なるイエス様をいただいています。このお方によって義とされ、神様の前に立つことができる、それは驚くべき恵みであり、特権なのです。
  3. そしてモーセは主の恵みと祝福を願い求めます(13-15節)。私たちの人生の中には試練があります。また私たちの側の失敗もあるかもしれません。しかし主は必ずその中にさえ、ご自分の善を現してくださるのです(詩篇126:1-2)。問題の中に主を求めることができる、それは本当に感謝なことなのです。実のところ、主が私たちを背負ってきてくださったので(イザヤ63:8-9)、私たちはここまで来ることができたのです。

三、
モーセは最後に、主の慈愛が私たちの上にあるように、と祈ります(16-17節)。彼の人生には多くの労苦と涙があったことでしょう。しかしその中で彼はいつも、主に求め、主に委ねることができました。主の臨在の中で、「失望」は「希望」に変えられます。その時に私たちの歩みは、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない(詩篇1:1-3)」ものとされるのです。

2010/12/26 年末礼拝メッセージ

12月 31st, 2010 § コメントする

感謝のこころ
詩篇33篇

一、
 2010年の礼拝も今日で最後です。一年間を振り返って思うときに、いろんなことがあったとしても、そこにあるのは主への感謝です。

二、
 私たちの神様は良いお方です。そして私たちに良い物だけを与えて下さいます(ヤコブ1:17)。そして良くないことが起こってくるときでさえも、それを通して神様は私たちをご自分のもとへ引き寄せて下さるときがあるのです(詩篇119:71)。つまり、あらゆる事の中に神様の御手があるのです。

  1. 詩篇の作者は賛美こそが私たちにふさわしいものだと歌います(1-5節)。イエス様が来られたときに、私たちは憂いの心の代わりに賛美の外套をいただきました(イザヤ61:1-3)。主は困難の中にさえ働いて下さるお方です。そしてそこでご自分の真実を私たちに教えて下さいます。
  2. 次に詩篇の作者は、神様の御わざを賛美します(6-8節)。この自然を見るときに、確かにそこには神様の全知全能、愛、あわれみ、すべての御性質があふれています。私たちはそれを見て、神様を賛美するのです。
  3. そして詩篇の作者は、主が主権をお持ちであること(9-12節)、人の力は頼みになるものではなく(13-17節)、主だけが私たちの力、私たちの救いであることを歌います(18-22節)。確かに主のご計画だけが成就します(イザヤ55:10-11)。そしてそのような偉大なお方が私たちの主であること、それが私たちの誇りであり、また頼みです(エレミヤ9:24)。主が私たちの味方であるときに、私たちに敵対できるものなどないのです(ローマ8:31)。

三、
 主に信頼するときに、私たちが主を追い求めなくとも、主が私たちと共にいてくださいます。そして世の無力な神々とは違って、ご自分の力強い御手で私たちを守り、導いて下さいます。一年を振り返るときに、主の真実は今年も尽きることがなかった、そのことを覚えます。年末のこのとき、主にこの一年への感謝を捧げて、そして主にある新しい年を迎えていきましょう。

 メッセージオーディオ

2010/12/19 第四アドベント礼拝メッセージ

12月 31st, 2010 § コメントする

クリスマス・ストーリー#4、キリストの御降誕
マタイ福音書1章~2章12節

一、
 今日は第四アドベント、いよいよクリスマスも目前です。イエス様が来られた、それは私たちにとって本当に恵みであり、感謝です。

二、
 マタイの福音書は、その最初をイエス様の系図で始めます。聖書には、それが私たちには難しく思えたとしても、全て意味があります。イエス様がそのような家系の中にお生まれになったことには、深い意味があるのです。

  1. この家系図は、ユダヤの文化を考えるときに驚くべき家系図です。まず女性が記されていること、またその女性たちが異邦人/異教の背景をもつか、あるいはそこに罪の関係がありさえします。しかしそのことは、イエス様が性別、身分、貧富、それらを全て超えて、そして私たち罪人のただ中に神様の側から来られたことを示しています。
  2. イエス様は罪人である私たちを救うために来られました(Ⅰテモテ1:15)。私たちを解放し、自由を与えるために来て下さったのです(ルカ4:18-19)。それは人手によることではなくて、ただ一方的な神様のご計画、御わざでした(1章18-21節)。イエス様こそが救いです(使徒4:12)。イエス様こそが罪からの解放(Ⅰヨハネ1:7)、新しい出発です(Ⅱコリント5:17)。
  3. イエス様は天での輝かしいご栄光を捨てて、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。王の王なるお方がエルサレムではなく、小さな村でお生まれになったのです。そのことはイエス様の謙遜と愛を表しています。イエス様は低い姿を取り、確かに私たちに安息を与えるために(マタイ11:28-30)来て下さったのです。

三、
 神の御子が来られた、その時に私たちがするべきことは礼拝です。その時に本当の喜びがあります。東方からの博士たちがイエス様のもとに来て、礼拝を捧げたとき、また贈り物を捧げたとき、彼らの心には本当の喜びがありました(2章7-11節)。いよいよ今週、クリスマスの時を迎えていきますが、毎日をイエス様を礼拝する心をもって、心整えられて歩んでいきましょう。

 礼拝賛美オーディオ

 メッセージオーディオ

2010/12/12 第三アドベント礼拝メッセージ

12月 31st, 2010 § コメントする

クリスマス・ストーリー#3、恵み
Ⅱサムエル記7章15-16節

一、
 今日はイエス様の御降誕の約束の3番目、ダビデへの約束から見ていきましょう。やがて来られる救い主について、最初は女の子孫、次にユダの部族と預言されてきました、そしていよいよ焦点はダビデの家系に合わさるのです。

二、 
 ダビデが自らの王国を確立した時、彼は自分の住んでいる立派な宮殿と比べて神様の幕屋が人の目には立派に見えないことに気づきました。そして自分が神様のために神殿を造りたいと願いました(1-3節)。

  1. しかししばしば人の考えと神様の考えは異なります(イザヤ55:9)。神様はダビデに、いつもイスラエルの民の近くに、ご自分の側からおられたことを語られました(5-6節、マタイ28:19-20)。
  2. ダビデが王となったのは、ただ神様の恵みによることでした(7-8節)。敵が滅ぼされ、彼が大いなる者とされたのはただ神様のなさったことだったのです(9節、Ⅰペテロ5:6)。そして神様は、神様の為に家を建てたいと願ったダビデに対して、ご自分がダビデのために家を建てると言われました(11b-13節)。
  3. 神様は彼の家が神様の前にとこしえまでも続くこと、そして彼の家系から出る王が、永遠の王として立つことを約束されました(15-16節)。ダビデは素晴らしい信仰者ですが、しかし同時にひどい罪を重ねた人でもありました。ダビデから約束された救い主が起こされること、それは神様の一方的な恵みとあわれみを、また神様が私たちから遠いところに来られたのではなくて、私たちのただ中に来て下さったことを表しています。確かにイエス様はインマヌエル、「神我らと共にいます」お方なのです。

三、
 イエス様はご自分のことをダビデの子孫とおっしゃいました。それはイエス様の王権、またその正統性を表しています(イザヤ9:6-7)。私たちの心の王座にいるのは誰でしょうか。イエス様以外に、私たちの王であるべき方はありません。イエス様を心にお迎えして、クリスマスの季節を歩んでいきましょう。

礼拝賛美オーディオ

メッセージオーディオ

2010/11/28 第一アドベントメッセージ

11月 30th, 2010 § コメントする

クリスマス・ストーリー#1、希望
創世記3章1-15節

一、
 今日からアドベント、クリスマスの季節です。イエス様の御降誕は、実に聖書の最初から約束されていたことでした。そしてそこで私たちが知るのは、ただ神様の真実です。

二、
 人類の始祖のアダムとエバがエデンの園にいたとき、サタンが蛇を通してエバに誘惑を持ってきました(1節)。

  1. 私たちの霊的な命は、ただ御言葉によります(マタイ4:4)。私たちは御言葉を心の中に豊かに住まわせなければなりません(コロサイ3:16)。しかしエバはアダムから聞いた神様の言葉を正確に覚えていませんでした(2-3節)。私たちと神様との関係は個人的なもので、他の人の信仰が自分の信仰の代わりをすることはできないのです。
  2. 蛇はエバのあやふやな信仰を見抜いて、たたみ掛けるように惑わしました。また自由になれると言いました(4-5節)。神様は私たちに罪を禁じられるのは、それが私たちを滅ぼすからです。私たちの自由は、ただ神様に仕えるためにだけ用いられるべきものです(Ⅰペテロ2:16)。しかしエバは誘惑にますます引き寄せられ、善悪を知る木の実を食べ、また夫にも与えました(6節)。
  3. その時に罪が入り、彼らは神様の前から隠れました(7-9節)。神様の問いかけに対し彼らは責任転嫁をし、早くも罪の性質を現してしまいました。神様は彼らにたいして、罪の裁きを宣告されましたが(16-19節)、驚くべきことに、ここで最初の福音、希望もお語りになりました(14-15節)。それはやがて女の子孫が来て、蛇の頭を砕くというものでした。

三、
 イエス様が来られたのは、サタンのわざを滅ぼすためでした(Ⅰヨハネ3:8)。そしてイエス様は約束された通り、おとめマリヤから生まれてくださいました(マタイ1:22-23)。そこにあるのは、ただ神様の深いあわれみ、真実です。クリスマスに神様の真実が表されたことを思い、心整えていきましょう。

2010/11/21 聖日礼拝メッセージ

11月 30th, 2010 § コメントする

感謝する心
詩篇100篇

一、
 来週からクリスマスの季節に入っていきますが、この一年間を振り返るときに、私たちの心にあるのはやはり神様への感謝です。主は本当に良いお方で、いつも私たちにご自分の最善をなして下さっています。

二、
 詩篇の作者は100篇を、「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」と始めます(1節)。私たちは日々の歩みの中に様々なことがありますが、しかしまず覚えるべきことは神様の多くの恵みです(詩篇103:2)。

  1. 私たちは自分の価値基準で物事を判断してしまいます。でも神様にあっては、私たちにとって良くないことでさえ神様の善へとつながっているのです(ローマ8:28)。私たちの側がどうであれ、神様のなさることはいつも良いことなのです(ローマ8:31-32)。
  2. そのとき私たちは神様に感謝することができます(2節)。また期待することができます。そして私たちは神様の民、その牧場に憩うことを許された羊であることを知ります(3節)。それは単なる知識ではなくて、私たちの経験です(ホセア6:3)。振り返ってみるときに、いつも神様の最善を経験してきたことを私たちは思うのです。
  3. その時に私たちの心にあるのは、改めて感謝です(4節)。主が求めておられるのは私たちが捧げる「もの」ではなく、私たちの捧げる「心」です。そしてまた、そのときに私たちの内側にも喜びがあります(マタイ2:9-11)。神様は私たちが感謝することを望み(Ⅰテサロニケ5:16-18)、またその心を喜んで下さいます。その時に私たちは刷新をさえ’いただきます(詩篇103:2-5)。主こそが私たちの神(詩篇18:31)、真実はただ主だけにあるのです(5節)。

三、
 この一年を振り返るときに、様々な良いことがありました。でも感謝なことは、その背後にいてそれらを私たちに与えて下さったお方が私たちの主でいてくださることです。主に感謝を捧げて、この一年の最後を歩んでいきましょう。

2010/11/14 聖日礼拝メッセージ

11月 30th, 2010 § コメントする

成長すること、走り続けること
ピリピ書3章12~14節

一、
 私たちの信仰の歩みは、単にターニング・ポイントを回ることにとどまるものではありません。神様はそこから私たちが成長し、またイエス様に似せられた者となっていくことを願っておられるのです。

二、
 パウロ先生はピリピ書の中で、自分のことを完全だとは思っていないと語ります(12節)。私たちは救われて身分としては聖なる者とされています。そして次に、その内面も聖なる者とされていく必要があります。御霊の実(ガラテヤ5:22-23)を結ぶ人々になっていく必要があるのです。

  1. パウロ先生はまず、自分は神様の召しを全うしたとは思っていないことを語ります(13a節)。彼はこの手紙を書いたとき、人生の晩年でした。しかしなお神様にある栄誉を求めるために、成長することを求めていたのです(Ⅰコリント9:24-25)。
  2. 私たちの信仰とは、ぬるいものではなくて熱いものであるべきです(黙示録3:15)。私たちは霊に燃え主に仕える人々でなければなりません(ローマ12:11)。そしてその時に私たちは神様からの栄誉にあずかります。私たちは失格者になるような歩みをするべきではありません(Ⅰコリント9:26-27)。
  3. そのために私たちは、イエス様を見上げ、後ろを振り向かず前を見て走り続けます(13b-14節)。イエス様に従うことは、時に犠牲を要求するかもしれませんが、しかしイエス様は私たちの犠牲を払うに価するお方です。このお方こそが真実な方で、私たちに必ず報いを与えて下さるのです(Ⅱテモテ2:11-13)。

三、
 主は真実なお方です(詩篇103:2)。その時に私たちは前を向いて走り続けます。何よりもまず、イエス様を見上げていきましょう。そしてイエス様に与えられたそれぞれの召しを全うすることを覚えましょう。主の恵みに感謝して、今年の最後の部分を、ギアを上げて走り切ろうではありませんか。

2010/11/7 聖日礼拝メッセージ

11月 30th, 2010 § コメントする

人生のターニング・ポイントⅢ
ルカ福音書19章1節~10節

一、
 私たちの人生のターニング・ポイントとは、実にイエス様との出会いです。今日はザアカイの物語から、そのことを見ていきましょう。

二、
 イエス様はエルサレムを目指して歩まれる途中で、エリコの町に立ち寄られました。この町にはザアカイという取税人のかしらがいました(1-2節)。彼は人々から定められた税額以上のお金を取り立て、おそらくは憎まれていたに違いありません。

  1. 私たちにとって富とは、仕えるか仕えないかの二択しかありません(マタイ6:24)。むしろ私たちは神様を第一に求めるべきで、その時に神様が必要を満たして下さることを覚えなければいけません(マタイ6:33)。しかしザアカイは富を第一とする生活を送っていました。
  2. しかしいくらこの世の物を持っていたとしても、もし自分の魂が失われているならば、それは無意味です(ルカ12:20-21)。ザアカイの心には、恐らく満たされない渇きがあったことでしょう。しかし私たちを救うのはこの世の何かではなく、ただイエス様の御名です(使徒4:12)。
  3. イエス様がエリコの町に入られたとき、ザアカイはイエス様を一目見ようとして、イチジク桑の木に登りました(3-4節)。その時に驚くべきことが起こりました。イエス様の側からザアカイの所に来て下さったのです(5節)。救いについて驚くべきことは、神様の側から私たちの所に来て下さったことです(ヨハネ1:14)。ザアカイはイエス様を迎え、過去の罪の悔い改めをしました(6-8節)。そしてその時に、神様の前に失われていたザアカイは回復されたのでした。イエス様は実に、私たちを捜し出し、救いだし、回復するために来て下さったのです(9-10節)。

 

三、
 私たちの人生のターニング・ポイント、それはイエス様との出会いです。そしてその時に私たちの人生は完全かつ永遠に変わります。主が私たちに与えて下さる愛と回復(詩篇147:3)に感謝して、今週も歩んでいきましょう。’

2010/10/31 聖日礼拝メッセージ

10月 31st, 2010 § コメントする

人生のターニング・ポイントⅡB
出エジプト記2章13節~3章5節
一、
 今週は先週に引き続いて、モーセの人生から、その中に起こった二つ目のターニング・ポイント(転回点)について見ていきましょう。人の転回点と神様の転回点は、違うものなのです。
 
二、
 モーセは良い心から同胞たちのために立ち上がりましたが、しかしそれはうまくいきませんでした。第一の転回点で彼は失敗してしまったのです。
  1. それは何よりも、神様の時ではなかったからでした。私たちのすることは、全て神様の御手の中にあります(詩篇31:15)。彼は待てずに立ち上がり、そして同胞たちからさえも拒絶されてしまいました(2章13-14節)。彼はもはや王宮にいることができず、ミデヤンの地に逃れました(15節)。
  2. 彼はミデヤンの地で結婚し、息子を得ました(16-22節)。そこで彼は、私たちは地上にあっては寄留者にしか過ぎないこと(ヘブル11:13)を知りました。そして40年間の平凡な生活の中で、彼の中にあった良くない部分、また肉の力が削られていきました。しかし実は、それが神様の試験の過程であったのです(申命記8:2)。
  3. たとえ全てが失われたように思えても、全ては主の御手の中にあります。人間的な意味でモーセが無力になった時に、神様は彼にターニング・ポイントを与え、ご自分の働きのために召し出されました(3章1-5節)。最初の転回点との違いは、そこでモーセが神様に出会ったことです。彼は自分の力ではなく神様の力で立ち上がり(4章11-12節)、信仰によってイスラエルの民を約束の地へと導くことになりました(ヘブル11:26-29)。
 
三、
 神様は私たちの失敗をさえ用いることができるお方です。大切なことは目に見える状況ではなく主に目を留めることです(Ⅱコリント4:16-18)。主と共に歩むときに、私たちが転回点を探さなくても、主が時にかなって最善をなして下さいます(詩篇37:3-6)。主は私たちの信頼するに足りるお方です(Ⅰペテロ2:6)。主への信仰に堅く立って、今週も歩んで行きましょう。
 
 

2010/10/24 聖日礼拝メッセージ

10月 31st, 2010 コメントは受け付けていません。

人生のターニング・ポイントⅡA
出エジプト記2章1~12節
一、
 人生において、神様が与えてくださるターニング・ポイントと私たちが考えるターニング・ポイントは、しばしば異なるものです。今日から2回に分けて旧約聖書のモーセの例から見ていきたいと思います。
 
二、
 昔、イスラエルがエジプトで奴隷とされていた頃、あるレビ人の夫婦にかわいい男の子が生まれました(1-2節)。彼こそがやがてイスラエルの民をエジプトから救い出すことになるモーセでした。
  1. レビの家系に生まれた赤ん坊でしたが、当時のエジプトではヘブル人の男の子は殺されなければならない規定でした(出エジプト1:16)。しかしその子は不思議な方法でエジプトの王子となることになりました(3-10節)。
  2. 少年はモーセ(引き出す者)と名付けられました。彼は当時世界の大国であったエジプトで最高の教育を受け(使徒7:20-22)、エジプトの指導者として華やかな青年期を送ったに違いありません。しかしおそらく彼の心には、満たされない思いがありました。なぜなら彼はヘブル人であり、エジプトの地において、ヘブル人は奴隷とされ、迫害されていたからです。
  3. 40歳になった頃、かれはイスラエルを救うために立ち上がる決心をしました(使徒7:23)。そしてヘブル人をエジプト人が打っているのを見て、彼を殺しました(11-12節)。しかしそれは、神様の御心、また時ではありませんでした。私たちは多くの場合、よかれと思ってことをなすものです。しかし神様の基準に合うかどうかはまた別のことです(箴言16:1-2)。彼の心の中には、まだ取り扱われるべきものがあったに違いありません。
 
三、
 神様が私たちに持っておられる計画は良い計画で、変わることがありません(ローマ11:29)。それゆえ神様は時に私たちの側の計画に待ったをかけられることがあります。そこで必要なのは信仰です(箴言16:3、ヘブル11:1)。その試練を通る中で私たちは神様に引き寄せられ、神様に似た者へと変えられていくのです(Ⅱコリント3:18)。
 
 
フォロー

Get every new post delivered to your Inbox.